STARDRIVER〜輝きのタクト〜第22話「神話前夜」から最終回へ
とにかくスタドラはいつも面白い。
夜間飛行の演劇自体はとても芝居がかっていて個人的にはあまり好きでないタイプの演劇だったのですが、そんなことがすっ飛ばされるらい面白い。
舞台が好き・関わっている者の端くれ的に気になったところなどを、感想POSTを整理する形で簡単に。
スポットライトから
先ず目につくのは人間を真上から照らすスポットライト。多用されていますし、作中でもよく見られる。
わりと大きな会場・大きな舞台美術であることや、そして距離と時間の遠さが混在しているために注目するところ絞るのは有効であるといえよう。
そして、注目されていたのはメインの登場人物たち。特に驚いた仕掛けは、上からの光が人物をフォローするように動いていたこと。基本的にそういう用途のピン*1は前から当てるから影と光線から異なる、つまり天井の灯体(サス)自体が動いているこということになる。どっちにしても大変なのですが、後者のような仕掛けを作っちゃうあたり流石あの高校ですよ。
で、ここからどのような印象を受けるかというと「芝居がかっている」ということ。
セリフから
作中でもそうなのだけれど、モノローグが少ない。*2
作中では対話から組み立てていく。このことも*3客観的な印象を抱かせるでしょうか。
対話は芝居における台詞のゼロレベルに位置し、立場を見せる働きがあるため「劇的なもの」が駆動する。それによってスガタとタクト、それぞれの立場をしっかりと印象付けている。
劇中でも対話中心だが、冒頭のワコの立ち位置(同じ舞台上に居ながら聞こえていない)や非人称的なナレーション。発話の仕方や言葉の選び方より、もっと芝居がかっている(作為が見える)表現。芝居の約束事に支えられた表現。そして、それがこのSTARDRIVERの物語とあまりに見事に結びついているように見えるのである。
固有のルールの下での「夜間飛行の演劇」と「南十字島の物語」が重なる。*4
夜間飛行の演目『神話前夜』の特徴は近代的なこと。それは、役割を演じるということ。現代の全てが役者>役というわけではありませんが、古めの表現、つまり前夜的な表現。*5
舞台空間から
劇場という非日常の空間で過ごす時間は、まさにゼロ時間のようなもの。その際の断絶として歌が用いられたり、サイバディ登場のバンクなどで印象づける(また、直接関係はないが、時々見られるシーン転換の暗転の長さも一役買っている)。
それについては特に14話(アインゴッドの回)がすごく面白かったのだけれど、そこでは反復から最後にフッとかわす可笑しみを繰り返した後で、どうしてもかわせないアインゴッドの眼の力を持ち出す。
また、前述したワコの立ち位置も含めたレイヤーもサイバディに関わる人々の多重性に重なる。
まず、仮面である。裏として顔を隠すための仮面をとってアプリボワゼしても、サイバディに乗り込むことでもう一度素顔を隠すことになるというちょっと複雑な仕組みだが、ここには各々の能力という固有性がある。かつ、その能力では操る・乗っ取る能力が幾つも見られる。
そして、フェーズが上がること・物語が進むことでその姿がはっきりと見えてくる。
仮面を付けた芝居と言うと、古代ギリシャ(土地を利用した劇場、コンテスト)・能(薄めの明かりで仮面の陰影)が思いつきますが、能に対比できるのが化粧ではあるがはっきりと顔を見せる照明があるという点で歌舞伎(仮面をつけない狂言)でしょうか。スタドラは(サイバディが古代のものという点を加味するとより)私は1つ目だと感じます。
では、表はどうなっているか。それは主に日常におけるシーンであり、この22話においては休憩と公演終了後がそれである。しかし、演劇においてはこれらは裏になる。
休憩は、休憩からOP、そしてCMを挟んで後半をBパート頭からという構成、公演後では部長が視聴者に見えてしまい、加えて巫女がスガタに見えてしまうこともあり、『神話前夜』が複雑な劇中劇として機能していることがわかる。部長がお客さんを気にしてたのも納得。