演技と距離2〜大塚さんの発言より〜

GIGAZINEの「一番難しいのは「生き残ること」、大塚明夫が「声優」という職業を語る」より気になるところを抜粋。
例によって演劇的な側面からの個人的な見解を添えて。「どういう声優が売れるのか?」というところよりは、演技について触れていたところのほうが遠からず近からずな作業を目にしている外野には面白いので。

様々な距離

役者(パフォーマー)がいて、役があって、観客がいる*1。そして空間においてもそれぞれ違いのある複雑極まりなさを見ていきたい。

声の当て方

大塚:
(略)でも生身の人間じゃない二次元の人間に呼吸を吹き込んでいくっていうのは、どう理解すればいいのか。(略)画面の中の人との距離感とか、スタジオで隣でしゃべっている人の距離感とか、いろいろなものを常に計算しなくちゃいけないんだけど、そういうことにまだ慣れないでやってたね。

大塚:
アニメと一番違うのは……生身の人間ってことですよね。フィルムっていうことでは2次元の世界ですけど、生きた人間が芝居をやっているわけですから、アニメの場合は描いた絵がしゃべりますけど、生身の人間と描いた人間の違いっていうのは大きくて、生身の人間っていうのはどうしてもその人の芝居からあんまり外れられない。例えばスティーブン・セガールなんかは本人は甲高い声ですけど、声を当てるときに甲高い声を当てるよりは普通にしゃべる方が様になる。しっくりくる。そのしっくりくるみたいな所を探して行くのが吹き替える上で結構大切なんじゃないかなあ、と思いますね。そうしようと思うとまず呼吸を盗まないといけない。息が合ってると、立体感が出てくるんですよ、台詞に。息をあわせてやらないと、画面に貼り付けたような台詞になっちゃう。

役者は脚本から役との距離を測り、また、映像からも役との距離を測る場合もある。そして、他の役者・他の役と脚本・映像・スタジオ内での距離を測る必要があるということである。
さらに、複雑さを増す要素として、もっと離れた場所にいるが映像においては近い位置にいるであろう観客との距離も測らなくてはならないことが挙げられる*2。最終的に届かせるのはココなのである。単純に大きさや位置の調整だけで距離の違いを作れるわけではない。脚本段階での台詞の言葉選び、抑揚等も重要な要素である。
最後に述べるが、その距離やレコーディングという方法によって単に声量や方向を変える必要があるのかどうかということも大きい。
そんな中で、スタジオ内でどのようなことがあるのかも述べられている。

今ここ性

大塚:
大体どんな音を出すのかとか……声の質だけじゃなくて。スタイルみたいなものがあるじゃない。そういうのを知ってる人たちが集まってきて、「あ、今週は彼がいる」とか「今週も、一丁やろうか」みたいな。そんな感じがして、とても大好きでしたね。

大塚:
あります、あります。やっぱり声の仕事の場合は、例えば自分を撮った映画のアフレコをやる場合でも、そのときの同じ気持ちにはならないと思う。台本を見ながらであっても、ああ、このタイミングで後ろを振り向いてしゃべり出したんだった……とかって思いながら声を当てちゃうし。自分が演じたものに台詞を入れるとしても、その時と同じようにはいかないじゃない。芝居の場合はその時そこで起きてることが全てだから、一番ウソがなく出来るんじゃないかな。もちろん芝居だからウソなんだけど。目の前にお客さんはいるしね。ウソなんだけど。だけど、自分の生理で言えばそれが一番ウソが少なくて、一番その気になれるゴッコなんじゃないかな。

一つ目の一種の再演性(語弊はあるが)は非常に興味深い。役者同士に限らず、演出やテクニカルスタッフともこのような関係がとれると、現場としてはけっこうステキなことになるだろうことは、小劇場界隈の私でも実感はある*3。その場でしか起こりえないということはいつでもそうなのだが、共通認識が強いことは出来上がってくるものに差異を作るのは当然であり、だが一方で慣れない同士だからダメというわけでもない。
二つ目は、芝居(舞台での演劇)の大きな性質である。目の前のことについては嘘がない、が、嘘であるというのは役になりきる・フィクションであるというような単純なことではない。
それらをどのように届けていくのかが上で挙げたことなどである。
そして最後に演じるということについて挙げておく。

役者性

大塚:
でも僕は自分の声を商品にするって考えがあんまりないので。声を商品だと思っちゃうと、多分どの役をやっても同じしゃべり口で同じ声で、かっこいい声を出してやっちゃうと思うんだけど。商品だけど商品じゃないっていうかね。

大塚:
声は素材でしかなくて、商品ではないですね。ただまあ買う側からしたら商品なんですけど。

大塚:
なんていうんだろう、例えばオペラの人だったらどれだけ高い音が出るだろうっていうフィジカルな問題っていうのがある(略)僕らの場合、例えば僕が一番高い音を出しても、別にいらないものですよね。その人によって、じゃあ何がその商品の効能書きなんだっていうことだと思う。いい声ったって、じゃあ何がいい声なのか。そんなの好き好きなんだから分からないじゃない。だとしたら、語り口とか、そういったものの方が効能なわけ。ほら、「こんなにいい声なんですよ」って「ああそうですか、よかったですね」ってそれだけのことになっちゃう。そういう考え方をしちゃう。そういう考え方が僕はすごく嫌で。なんでかって、仕事がつまんなくなっちゃうじゃない。演ずる楽しみがなくなってしまうような気がする。「これが自分の声です」って固執しないで、なんか声は声で、それはあなたの、僕の、声なんだから。その声をどうやって使ってキャラクターを作っていくんだって、そこと常に向き合っていたい。あんまり声質みたいなことは考えない。(略)

イムリーにも最近の打ち合わせや雑談で話題になったことでした。
役者としてニュートラルな状態を作れるというのは大切な技術の一つで、そこにその人にしか出来ないものをフィジカルの問題*4を超えて打ち出すことが出来るというのが楽しみの一つである。*5
で、やっぱりそれを超えるのためのものが演出であって、大きな声を出すと崩れたり小さな声を出すとくぐもってしまう、とか、そういうのを操作して聞き取れるものに、逆に聞き取らせないものにするのかなど操作するのである*6。マイクを通しているのでデジタルな操作も可能であることも見逃してはいけない。

まとめ

gdgd妖精'sめっちゃステキ。

*1:役というものがない場合もあるが、ここでは触れない。どんな感じなのだろうかという場合には、コンテンポラリーダンスチェルフィッチュ等の作品を1つでもご覧頂ければと思う。

*2:「これはゾンビですか」の一期で三石琴乃さんが若手に苦言を呈していたのはこのあたりでしたね。

*3:決して癒着ではない。

*4:ここでは声質が挙げられているが、柔軟性や可動域、体型などの身体性の問題である。

*5:とは言ってもフィジカルの問題は私も非常に左右されてしまい、こおろぎさとみさんの声にはメロメロなのですが、こういう流れで好きと言ってしまうとちょっと失礼なのではないかとヒヤヒヤもしています。

*6:これは是非マームとジプシーの作品を見て欲しい