範宙遊泳『さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-』

素晴らしい作品でした。
感想の前に、この作品に繋がるこの一年における演出における試みを振り返りってみます。
最近の作品は、特にプロジェクターを利用した演出が特徴的でありますが、一年に限定した流れの中ではGALA Obirin 2012スタッフ企画(2012年5月)に端を発していると思われます*1。この作品は人間の役者が出演せず、黒子によってときおり動かされる舞台美術がそれとなっていました。そして、プロジェクターから投影されるテキストによって物語は進行します。元々、この企画は照明や音響、舞台監督などのスタッフ向け企画だったということもありますが、演劇と銘打った上で行っていたので強烈な印象が残りました。
それ以降は、役者も交えながら写真や図像、映像、プロジェクターの光源から生じる影をも用いながら、その前で芝居が行われる少作品を連続して発表しています。
これを踏まえて、この作品の感想に移りますが、この作品というよりは一連の作品群への見解になっているかもしれません。



範宙遊泳のプロジェクターを利用した作品群は、役を表現する具体に複数性を持たせています*2。特にテキストのスライド投影での台詞において、それは顕著に表れています。まず、フォントの問題ですが、テキストは誰の台詞であってもMSゴシックなど、多くの人間が見たことがある匿名性を持ちやすいフォントが使われています。そして、その台詞を声で語るべき登場人物は役者でありますが、彼/彼女は発声しません。これは会話でも起こります。つまり、いないはずの対話の相手がそこにいるものとして行われていることになるのです(実際に相手はいるのですが)。
この状況を『せりふの構造』 (佐々木健一 講談社学術文庫 1994年)を参考にすると、演劇・芝居の約束事に基づく独白や傍白のテキストはボイスオーバーとして機能し、演劇・芝居の基本である対話のテキストはそのまま会話として機能しているということになります。

さらに、壁に投影された図像がもう一つの舞台となり、舞台上の役者がその新たな舞台での芝居を行うこともあります。これはフレーム内フレームとして、舞台を眺める視点と物語を眺める視点の両者の焦点を新たに結ぶことになります。こうして役という一つのイメージが複数性を持った具体として立ち現れ、それに上記したように直接的なリアクションを取らせることによって二次元と三次元の絶対的な境界を見せつけられます。それは、客と客の境界・客席と舞台の境界・舞台上の人/物と人/物の境界も顕にし、それぞれが独立して同じ場所に存在しているということを意識させるものです。

同じ場所に存在するものは互いに影響を及ぼし合います。例えば、見せ方こそ違うけれど、ダンサー・振付家の岩渕貞太のその空間に存在する物・音を感じ取り動きに反映していくという試みにも繋がるように思っています。こういった舞台上にある物・人の主体性の問題は松井周が「ポスト「静かな演劇」の可能性」(ユリイカ2005年7月号)という論考で取り上げていますが、範宙遊泳のプロジェクターを利用した作品群は、「静かな演劇」とそれに対するポスト「静かな演劇」との間を揺れ動きながら、ポスト「静かな演劇」を更新する可能性を秘めていると思います。
そして、これはさらに演劇の範囲を広げる/様々な境界を溶かすことで価値の転換を見せることにも繋がっているだろうと思っています。


脚本については一貫していて、物語世界は近未来・SFチックな設定である一方で、登場人物は市井の人々です。そうした普通の日常を生きる中に価値があることを見せようとするのは、ひどくチープでエモーショナルになりがちだけれど、今作は東京の街でのノスタルジックな出来事と、その流れの中で過ぎ去るもの・のろいによって失われていくもの、出来事が起こるどうしようもなさ・その出来事のどうでもよさが並置されていて、不条理さが際立っている。
こうしたことに目をそらさずに見つめ、寄り添いながら記録し表現することは、過去を受け止める姿勢であると言えます。過去を受け止めて自らの位置を定める行為は、人間活動にも結びついています。特に、国内において生活を揺るがす大きなことが起こり、それに向き合わなくてはならない今後において重要な姿勢を示すことでしょう。
若手作家に限らないことではありますが、同世代にウケる作品や時代性が単語に込められた程度でしか感じない作品は多く見ます。しかし、これほどまでに時代性を持った作品は中々出会いません。それを、若手作家が作ったことに非常に驚嘆をしています。

*1:プロジェクターを使う作品は他にもある。

*2:舞台上に現れる人間の出演者以外の要素では舞台美術や照明、音などもありますが、近年は特に小劇場において映像を用いた舞台作品を見かけることが多いように感じる。Nibrollにおけるアニメーションやチェルフィッチュにおける舞台上の物の投影もあるが、その下の世代はより「映像(スライド投影を含む)」との距離が近い。ディスプレイを眺める頻度が高く、手軽に使えるツールとしても触れている世代である。そのように物語外において敷居が低くいためか、物語内でも直接的に絡められるように用いられている。