劇場版けいおん!!〜ぼくらの見たものと彼女らの見たもの〜

見てきました。
あぁ、いいもの見たなぁと。


監督:山田尚子/脚本:吉田玲子
絵コンテ:山田尚子石原立也/演出:山田尚子石原立也、内海紘子
レイアウト監修:木上益治/キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子


カットと音

会話でも簡単に切り返しを使わない、普通だったら削ってしまいそうな仕草も見せ、わりと長めだったように感じた。取り立てるような長回しではないのだが、情報量のせいなのか。*1


SEなど生活音・環境音が中心のところは長めで、BGMがあるところも短いというわけではないが、シーンの状態や音楽に合わせて、切り替わる瞬間が近づくにつれやや早まる。
そのシーンが切り替わるときだが、それだけでなくカットの移り変わりも、音や音楽がリードしていく。*2


音がそういった構成を引っ張るだけでなく、演奏することの他に、最初に挙げたような彼女らの微細な行動が表れることで、絵やその動きからも音を音楽を支えていた。


※この映画に限らず、映像における視覚要素と聴覚要素、その構成については以下が参考になるかもしれない。
1.CiNii 論文 -  時間芸術としてのアニメーション : マクラレンの《リズメティク》
2.22:映像とリズム — 宮永亮の「arc」(2011)と「scales」(2011) (前編) – ART iT アートイット:日英バイリンガルの現代アート情報ポータルサイト

ナメとか仰瞰とか俯瞰とか

ナメ、これは頭からずっと気になった。物やら肩やらナメまくり。
観客は常に何かを通してけいおん!!の世界を見ていることになる。
そして、その何かを通して見た世界は、最終的にどこにつながるのか。この映画を見ている私は、映画の中の彼女たちと何を共有できるのか。


卒業に向けて、残る後輩の中野梓のために曲をつくろうと、その試行錯誤(主に扱われるのは歌詞である)をする。
それは梓には見えないが、観客と3年生たちは共有しているものである。
その唯(3年生)・梓(2年生)(・観客)という立場の違いから、少しギクシャクしたところ(作品としては噛み合っている)が見られる。


例えば、夜のホテルでの唯と梓がお互いを探して入れ替わり立ち替わるシークエンスがある。
唯は見えない梓を追い、梓は痕跡のオブジェクトを拾い、律・澪・紬の部屋ではドアの覗き穴からまさにアイで彼女ら姿を確認する。
この追う・確認する行動は繰り返され、カットの切り替わりのスピードが変わり、シーンの状況の変化を予期させるのだが、その変化というのが、実体の確認である。*3
このシークエンスはもちろんコメディではあるのだが、この見ることの問題から見ても面白いものだと言えるだろう。


そして、上に挙げた異なる立場にいる者が同じものを見る重要なシーンがある。
それは、唯が「天使にふれたよ」の歌詞を思い付く、その披露にむけて3年生が不安と決意を表明する、屋上でのシーンで見ることが出来る。
それが飛行機雲(とそれに重なる羽ばたく鳥)だ。
唯は手の平で作った丸を通して、梓は窓枠に嵌ったガラスを通して、観客はもちろん異なるが、それぞれを通してと、それらを通さないスクリーンを通してで見ることが出来たのだ。


この空と空にあるものがロンドンでの振り返り以上に、この先のTVシリーズ既視聴組はしっている最終回の先の、漫画版ではない、"見えない彼女たちの未来"まで見通している、その超越性も明らかだろう。
"見ることを見る"ということは、劇場構造や観客を露にする非常にクリティカルな問題だが、ここでは皮肉や気持ち悪さ、居心地の悪さを与えるものではなかった。*4


私は、このそれぞれの立場から共有できるものがある、それを示してくれたこのシークエンスを何よりも大切に心に留めておきたい。

あずキャット

やばい。口癖になる。

*1:記憶では5〜10秒くらいが平均だった気がするが、途中で数えるのをやめた。

*2:序盤の部室でのティータイムでムギがパンの袋を破くまでなど

*3:繰り返しに関しては変化をつけるのは当然のことで、けいおん!!に限ることではないが、例えば2期4話「修学旅行!」では多く見られた。

*4:この可視-不可視をどの視点(ポンティとかそういうの)から見るか、どちらがいいのかは私には分からないが、彼女たちと私たちの立場においてはもちろん異なるだろう。こういう視線と対象における問題はとても重要だと思うのだけれど、踏み込めないので、アイマスクなどにこじつけることも控える。