官能教育第4弾 中勘助×藤田貴大(マームとジプシー)『犬』

はい、マームとジプシーファンなのでまた行きました。
中勘助に関しては『銀の匙』しか読んだことがなく、『犬』がどんな話かというのは朧気ながら目にしてはいたけれど、さぁそれを昨年までの少女をめぐる物語から「大人の年」となった藤田貴大さんがどのように見せてくれるのか、それを楽しみにしておりました。

犬―他一篇 (岩波文庫)

犬―他一篇 (岩波文庫)

原作テキスト:中勘助『犬』より
構成・演出:藤田貴大(マームとジプシー)
出演:山内健司青年団)、青柳いづみ、尾野島慎太朗

人格の坩堝と演劇の始まり

基本になっている台詞の持つ意味の変化を現実と物語中で見せながら、現実の中にある虚構(に見せかけたもの)や虚構の中にある現実がよりハッキリと用いられた。それらを見事に使うことによって、登場人物・役を演じる役者、登場人物・役が物語の中で見立てられる犬、登場人物・役の年齢の頃の役者、現時点での役者、そういった4つの状態の変化がまざまざと立ち上がってくるのである。


これは、役者自身に自分のことや役のことを話させるだけでなく、盗み見る・脚本を予め知っていることを「カンニング」という言葉にして台詞に盛り込んでいたり、舞台上にいる人間の呼称をどの時点においても役者名で固定されていたことによる。
演技においても、普通ならト書きになる部分を発話させて動作を示した。((この場合の普通は、本当に素朴な普通。現代劇では!とか言わないところの辺り。))殺人は確かにできないことではあるが、そうではない部分、倒れる際にも時間を止めて細かく状況を発話することで際立っていた。*1こういった叙事に関してはブレヒトの演劇論において検討がなされているので、演劇や演技ってなんだろうかと思った時にはチラ見して欲しい。

ブレヒト演劇論 (1963年)

ブレヒト演劇論 (1963年)

だが、そういった叙事だけにとどまらせないのが最大の魅力であろう。音楽・身体・言葉のリズムが舞台の上にあり、それによって負荷がかけられ、変化が見えていく。それは上述した「にんげんのさまざまなじょうたい」の生の部分を垣間見せてくれる。
繰り返しになるが、今回はそれだけではないのだ。舞台上の人物どもが性を発して、それを受けた相手を獲得できるのかを追ったように、その修飾された姿や生の姿をどのように獲得せしめたか。獲得したところで劇は始まるものなのか。上演形態をとる作品では必ず問われることではあるが、ベタにメタなことを熱と構成でここまで出来るのかと感じざるを得なかった。


人間ではない何か別のモノ、人が観ている前でそれを舞台上に立ち上がらせた今回のリーディング?公演はあまりに見事であったといえよう。
そして、青年団ソウル市民5部作に出演中ながら、この公演にまで出された山内健司さんにも感謝したい。
継続している「さかあがりスカラシップ」の公演も年度末にある。何があっても観に行かなくてはならない。絶賛でキモチ悪いと言われようが、圧倒的イチオシなのだ。今度は公演期間もあきますし。


舞台は週2ペースくらいで行ってるんですけどね。他にも独立して書きたいものもあるんですけどね。時間が。

*1:終盤の山内さんが尾野島さんを刺し殺す・撃ち殺すシーン