例えば翻案することについて

アニメ愛好家として「好き/嫌い」「凄い/凄くない」を区別できるか否か:シロクマの屑籠


惡の華」に限って言えば、私は原作も好きだし、それがあるからこそアニメでの翻案に驚いて楽しんでいたりもする。


原作と違うからこそ、どんな翻案がなされたのか見たいのである。


また、そこで使われた手法がその作品に本当に合っているかというのはそんなに早く分かることではないし、事例の少ない手法であればその初回はシリーズにとっての、そしてその作品はジャンルにとっての今後の試金石と成り得るので尚更判断を焦ってはいけない。
ごくごく単純な「凄い/凄くない」の判断をするためにはここも大切だと思う。

勿論、上で挙げた基準を考慮しないのであれば、手法でやる必要はないということもすぐに言うことは出来るが、あくまでその時点での判断だということも留保しなくてはならないのだ。


例えば、やや遠いものではあるがよき言葉が載っている記事があるので紹介まで。
岡粼乾二郎ゼミ 基礎|2012年度講義録より 1. 歴史的な出来事を表現する。〈前編〉


もう一度「惡の華」に話を戻せば、制作側は"なんのためにこの手法をとったのか"ということについて説明がなされているので、観客が判断する基準の1つを確認しやすくなっており、責任は十分に果たしていると思う。
それを"作り手の自慰行為"だと言うのは、少々短絡的ではないか。この状況では、自分に合わないものは全て閉じているという閉じた発言と見られても仕方がない。


それとは別に許せない・面白くないという判断を下す場合もあるだろう。なんだかんだ言って私も未だに好きになれない、見るとイライラして仕方ないものはいくつもある。
何かを感じる理由はそのままで、通すフィルターが異なれば「面白い/面白くない」「好き/嫌い」の結果だけ違うものになるので、意見を表明するときに理由を挙げることはもっともなことではあるが、だからと言って過度に対立する側に向けた物言いは避けたほうがよろしいのではないかと思う。


「だからお前は見る目がないんだ」と言われて、気分良くお話が出来るような人間は大変少数であると思う。


何にせよ、私はチャレンジすらも見てやることが出来ない人々の声を大きく見せるような輩は嫌いなので、
「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが、大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ。
という煽りとして便利に使える楽なコピペの表には、
「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが、一部のそれは「先人が思いついたけど出来なかった」ことだ。
というものがあることを十分に理解する人が増えればいいと思う。