マームとジプシー『Kと真夜中のほとりで』

作・演出 藤田貴大
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マームとジプシーは一年前の『ハロースクール、バイバイ』から欠かさず見ている。一年前が遠い昔に思えてしまうほど、ものすごい変化をしている。見るたびに新しい方法に挑戦していて、次の作品ではそれを高めつつ別な方法まで取り入れている。本当に「化物か!」と思ってしまうほどすごい。
今回も素晴らしく、死ぬ前に「何か見たいものはあるか?」と訪ねられたら本作をお願いすると思う。

不在の中心

全体の構成としては『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を思い起こして頂ければ大まかな構成は伝わると思うが、*1時間の変化や以下に挙げる点などにより、かなり複雑なつくりになっている。
マームとジプシーの作品では「喪失」や「旅立ち」といったものが印象に残っている。それは「終焉」や「成長」といった言葉と相性が良いが、本作はその「不在」を見事に扱っていたように思う。
その「不在」の中心は行方不明になった「けいちゃん」である。
作品が始まった当初、私たちは彼女の存在を知らない。だが、物語が進むにつれて劇中人物たちから私たちの中で「けいちゃん」の存在が顕になっていく/形作られていく。他方で、劇中人物たちは時間の経過と共に「けいちゃん」が希薄になってしまうのである。
この意識が頂点に達するのが、「けいちゃん」が居なくなった場所、街にある泉(と同じく別れを表す駅)に人々が集まるときである。*2このとき、アクティングエリア中央におかれる泉を模した小物が置かれており、その上に「けいちゃん」の靴が置かれている。たんぽぽ(高山)が話しかけるシーンを直前に置くことでより強くイメージが想起させられる。
そして、「けいちゃん」の兄のかえで(尾野島)に思いを寄せるもも(召田)が話しかけるが、彼はそれに傾くことはない。その彼の明けそうにない夜とは裏腹に時間は終幕へ、劇中時間も夜明けに近づいて行く。
ここで、最大の魔法のような手段が用いられる。キャストは夜明けに合わせて小道具を片付け始め、最初の状態へ、そして客席も明るくなりまさに最初の状態、午前一時へと時が変わるのである。
これを、次の日の夜か戻ったその日の夜かは保留しておきたいが、ラストで「けいちゃん」と最後に話したりんこ(成田)が旅立つときに、かえでが彼女に「ここは帰ってこれる場所」だと言ったことに、大きく心を動かされた。

全体を見下ろす視点

また、これまでと大きく変化したと思ったのは、街の全貌を見下ろす位置にある家が登場したことと、そこに住む家族が登場したことだ。
これまでは街の中だけの物語だったが、もう一つ大きな視点が加わったと言える。そして、その家族はマイクをもって自己紹介から始める。いる場所が異なるのだ。
だが、そういうレイヤーを増やすだけでは終わらないのが、すごいところであると思う。それまでの劇中人物たちに絡めるだけでなく、家族の一人が街の外へ出る、つまりこの劇の、この夜の外にでるというところまで持っていくのだ。しかも、彼らは家族であり彼らのことを分かっている、劇中には登場しない親のことも分かっている。
だが、かえでは「けいちゃん」の事を知らない。街の中で残った痕跡から探すしかない。見事な対比であると思う。

みんなが見ている

今までもそうだったかもしれない。だが、今回はそれを意識させる動作があったからかとてもよく見えた。みんな、街にいる人(黒リノの上にいる人)、特に話者を注視しているのである。
見守っていると言い換えてもいいかもしれない(見張っているだと怖いが)。そうした舞台での一体感は、音楽アルバムのような一体感と共に作品を内から纏め上げていたようにも思う。

おまけ

余談だが、MIXした曲とのユニゾン具合は本当に素晴らしかった。MUMとか大好きでわりとダンスでも使われるから「うぉ」ってなった。

Yesterday Was Dramatic: Today Is Ok

Yesterday Was Dramatic: Today Is Ok

*1:過去と現在が交互にあらわれ、目的地へと収束していくさま。

*2:この泉は、まるで『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の世界の終わりの泉のようでもあった。