輪るピングドラム〜それは脚本と輪の狭間〜

今期の目玉も目玉の「輪るピングドラム」。
これで2クールって言うんだからすごい。運命とは何か、そして輪の中心には何があるか。

きっと何者にもなれないお前たちに告げる

この"何者かになる"という事については最近だと「STAR DRIVER〜輝きのタクト〜」や「劇場版ハゲタカ」がとてもよかった記憶があります。
あてがわれた役割それ自体が何者であるか、存在を明らかにするために何者かになるのか。
モブみたいに白くない主人公なのに「何者にもなれなない」と言われてしまっているので、前者のほうが近い感覚です。
どちらにせよ、そこでいいか・なんの為かの選択があり、且つその可能性が自分にあるかを分かるor信じることが必要です。その選択は彼らくらいの年齢(中高生)がいいところと思うのですが、お兄ちゃんたちはちょっとはみ出してるんですかね。もうどこまでが自分の範囲かが分かってしまっていて、それは家族のことに依るのかとか。

手帳と脚本(ホン)

つまり、そこに選択は確かにあるのですが、彼らが選んだとしてもそれは既に選ばされているという作り物としての矛盾がハッキリと押し出されているように見えるということです。


加えて、ですてぃにぃ手帳があの世界の中でホンとしての役目を負わされています(ピングドラムかどうかは不明)。言わずもがな予言書と脚本は記されていることが起こったとしても、起こることが書いてあるのと起こすことが書いてあるのとで性質が違いますし、"○○が起こるから☓☓しよう"と"○○を起こすために☓☓しよう"という行為の性質も違ってきます
演出的だと言えるのならこの後者によってでしょう。


また、後者であってもそれを読んだ個人個人(何者か)の解釈にズレは生じるので行動にもズレが生じますし、ホンである以上は必ずそこには内容を思ったようにトレース出来ない偶発的自体に遭遇することがある。それを回避するのがアドリブ力*1です。
既に述べた作り物の矛盾においてこれを行うのはとても難しいことで、そこに必要になってくるのが見た目における工夫になります*2
ホンの読み手が自分のですてぃにぃだと規定したときにその人は行為者、つまりそのホンの主人公になるので*3、ミュージカルと評された4話の苹果の妄想計画と漫画化された現実・それが移りゆくさまはとても有効ですし華やかで面白いです。
だから、書いてないこと・先のこと(自らによって書き込めるか)がとても気になるような作りになってますね。

輪るのは何?

輪は幾重にも重なっている。円卓と地下鉄、個人の内部に刻まれている輪と世界を形成する輪である。
今は未だ狭間にいる。輪と輪の間は生と死の狭間であり、陽毬や突き落とされた人々やそれに固執する人々だ。輪の中心は命、愛、人間だ。


誰かが全てわかってるなんてことはなく、道なりに走り続けて、その後は標識も何もかも全部塗りつぶして、Welcome to Rock’n Roll Night.

*1:4話では事が起こる前に兄弟に日記を読ませているので、完全な即興は有り得ないのを分かっているでしょう。

*2:ここは映像特有のものを使うけれど、脚本から起こることや転換などから(アングラ)演劇好きだっていうのが匂ってくるよなぁとか。話変わるけど、ただ定点カメラを多用するモノを演劇的と言ってしまうのは早計すぎるというかお前舞台観たことないだろ的なアレ。

*3:例えば他の働きをするものが他にもあるだろうし、これは何冊あって書き手が誰か分かりませんが、自分だとすれば尚更。