演劇になる言葉とダンスになる言葉

言葉を発するから「演劇」だ/黙って動いてるから「ダンス」だ、というものでないのはきっとこんな辺境にいらした方々なら十分理解しておられると思います。
最近、見た2つの舞台公演はそのことに大変示唆的だったのでここにメモを残しておきます。
ただ、私はそれによってその境界や、それを特徴付ける演出やコンセプトなどを指摘するつもりはないですし、そもそも出来ませんので悪しからず。

山下残『庭みたいなもの』

これはダンスの方。
まず、驚くべきは舞台美術。
KAAT(神奈川芸術劇場)大スタジオの掘り込みを利用して、*1大きな小屋が設営されていた。観客は廃材や古道具で飾られたその中を通って客席に着く。
これが最初のイリュージョン的展開である。

次に、前説である。振付・演出を担当された山下残氏自らが行った。*2
都合上、聞けなかったのでこれに関しては何かを言うことは出来ないが、客席に着いて当パンを取る動作以上にイリュージョンを解く効果があったか、それとももう一度作品世界へ誘うようなものだったのか、これはご覧になった方に雰囲気を教えて頂きたいものである。

そして、最も重要な作品について。
ざっくりと語弊も覚悟で言うと、「小屋の上が我々の見えるアクティングエリアで、小屋の中の物を小屋の上に上げて、その物とキャストの関係がキャスト同士の関係、そして別なキャストと物との関係と広がっていくもの」だった。
イメージはこちら(http://www.kaat.jp/pf/zan.html)から一番下の写真をご覧頂きたい。
それでは、そこで言葉がどのように機能していたかの話に移ります。
そこで発された言葉は、その物に関する説明である。ユニークな表現もあるが今回はその内容は重視せず、それで物に付加されていったということに絞りたい。それゆえ言っていることは身も蓋もないように思えてしまうのだけれど、じゃあそこに何も無いかといえば全くそうではない。
その物が立ち上がっていく過程をこそ堪能したい。振り返ると、元々は我々が先に小屋の中で見て、今度は見えない小屋の外に出て*3、その小屋から出てきた物なのだ。そしてどんどん付加されていっているのだ。
我々が見ているその物は今、何であろうか。

キャストの身体も同様に物に付加していく存在であったが、そこで見えていたものは何だったのか。何度でも考えたい素晴らしい作品であったと言いたい。

あうるすぽっとプロデュース:岡田利規森山開次金氏徹平『家電のように解り合えない』

客席明るめで脚立も見える舞台。*4観客に語りかけてくる言葉。
つまり、観客と舞台をいかに結ぶかと舞台の中でダンサーと女優をいかに結びつけるか、というものを見せられていると言っても構わないように思う。舞台の上で見えているものと私(たち)が見えているものをどう結ぶのか、それを私(たち)がどのように受け取るかのせめぎ合いでもあったように思う。

要所で光る(文字通りだったりそうでなかったり)舞台美術もあるが、やはり注目は森山開次がどのように舞台上で動くか(使われるか)だっただろう。
森山開次がけっこう踊っているし女優二人のダンスシーンもある。ここでも明確な言葉が用いらている。そこでパーツとしてはダンスだが作品としてダンスではない、と考えてしまえばわりと簡単なことのように思える。
しかし、それだけでいいわけがない。ここに演劇作家(もしくは岡田利規氏)というものが見えてくる可能性が高い。ただ「こんな感じで使いましたよ」ではない、そのことはもう少し考えたい。

言葉はその解り合えなさについて具体的であったと記憶していて、このダンスと演劇のことについては上で挙げた『庭みたいなもの』と比較できるところでもあると思う。
本当はここが一番キモなのですが、ここで切り上げたい。

おまけ

最後に、ちゃぶ台をひっくり返すようですが、ダンスだろうが演劇だろうがそこら辺の分類は失礼ながら個人的にはどうでもよかったりしますのでこうなってしまったという感じです。

*1:普段はない

*2:たいていは劇場スタッフや制作スタッフ、アナウンス要員が行うが、やはり演出家が行ったり奇をてらったりと作品や公演に合わせて様々なケースがある。

*3:隙間からくらいなら照明によってうっすら見えないこともない

*4:見えていることでイリュージョン効果が失われることもあるし、逆にそれが舞台上と客席の差を生むこともある。